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市商と平和教育


目次

市商と平和教育

広島市の平和教育についての考え方(平和教育の目標)→ヒロシマの被爆体験を原点として,生命の尊さと一人一人の人間の尊厳を理解させ,国際平和文化都市の 一員として,世界恒久平和の実現に貢献する意欲や態度を育成する。

まず本校は,大正10年(1921年)に広島市立商業学校として創立しました。昭和19年(1944年)戦争は翌年昭和20年(1945年)に終わるのですが,戦争末期には厳しい戦時体制が敷かれました。そして,労働力・国防要員としての役割が学徒にも求められるようになったのです。 本来の商業教育は戦時には不要のものとして否定され,全国で441校あった男子商業学校は48校(女子商業学校53校を含めても計101校)しか残らないという状況に陥ります。 沿革にもあるように,本校も広島市立造船工業学校と改称されました。商業を学ぶべく入学してきた先輩方は,造船または機械のどちらかに転科させられました。戦争は,先輩方から健全な商業教育を完全に奪ったのです。 商業高校の生徒として,知識を身につけスキルアップしていくためには,大前提として「平和」が不可欠です。本校が,広島市商ピースデパートの開催理念を,「平和学習・平和貢献を盛り込んだデパート」と定めた理由もここにあります。

※市商高校の沿革を通して平和を考える
昭和20年(1945年) 8月 全校舎焼失 (被爆当時は南観音町→翠町→仁保町丹那)

■校舎の被害…当時の校舎の場所:爆心地から約2km離れた南観音町 窓ガラスなどは一瞬にして破砕,二階建て校舎の階上は半壊。その後全焼。

■人的被害…下記の表の通り

区別 教職員 生徒 備考
即死者 5人 約246人  
重軽傷者 重 6人
軽 2人
重 30人
軽 50人
員6人中、3人は10月中旬までに死亡
行方不明者 不明 不明  

※材木町で建物疎開作業をしていた本校の教員5人・生徒194人は全員犠牲となりました。その中で何らかの理由で当時疎開作業に従事していなかった者だけが死を免れたのです。 下記がその方の手記です。

手記「生きているのがつらい」

温田 巌

自分は一時間の違いで今日まで生きのびてきたんです。もし一時間遅く原爆が落されていたら、自分も同級生と一緒に灰となっていたと思います。

当時、自分は市立造船工業学校の一年生でした。昭和二十年八月四日までは、クラスの人と一緒に毎日市内の建物疎開作業に出ていました。市内の中広に住んでいた家族全員が、軍の命により疎開することになり、たまたま八月五日軍の指示で馬や大八車を借りて、可部の大林へ疎開する作業に家族みんなで従事したのです。大八車に家財を積んで、歩いて大林へやっと着き、家のかたづけが一段落したのは、五日の夜遅い時間でした。

自分は当時家族より一足先に疎開していたのですが、八月六日朝、いつもの時間に登校するには、余りに疲労しており、家族に「遅刻理由書」を書いてもらい、いつもより遅く家を出て、可部駅に着いたのは午前八時頃でした。八時二十七分発の汽車に乗って登校すべく可部駅で待っていたその時、空がピカッと光り、何があったのだろうと落ち着きませんでした。数分後、広島方面の空にモクモクと、あのキノコ雲があがるのを見ました。八時二十七分の汽車に乗りましたが、長束駅から進まないことになり、市内にはとうてい入れないとのことでした。

結局その日は登校をあきらめ、大林の家へ帰ったのです。それが直接被爆をまぬかれて今日も生きているわけなのです。同級生と一緒の所で被爆して、運良く助かったのなら、胸をはって生きていられるのですが、何か生きていることが悪いような、とりわけ、一瞬にして死んだ同級生のご両親などに慰霊祭などでお会いすることは、とても辛いことです。だからそんな場には参加しないようにしてきました。

母校の五十回忌のときは、友の勧めもあり参列し、やむなく挨拶もしたのですが、前席で年老いたお母さんが涙して聞いて下さるのを前にして、本当に申し訳ないというか、辛く、苦しく、涙がとまりませんでした。

当時、八月七日からは毎日大林から可部駅まで歩き、祇園まで電車で行き、祇園から学校(南観音にあった)まで歩いて登下校をしばらくしました。十三才の年ですが、毎日三十㎞位歩いたことになるのでしょうか。今の健康がそのためかも知れませんが、今の人には考えられないことでしょう。

当時八月七日以降九月中頃までだったでしょうか、毎日、観音周辺の被爆者=死者を四~五人で捜しては、戸板に乗せて学校へ運び、校庭の一角で焼却しました。焼却に直接あたるのは、学校に駐在していた兵隊さんが行い、一度に十人前後を焼いていました。自分達は、仏さんの名札や、衣服の記念、証拠になるようなものをとって、遺骨と遺品が完全には一致はしなかったでしょうが、遺骨とその証拠品を一緒に瓦の上に並べたりしました。

いつのまにか、そのうちの八〇%位の遺骨が持ち去られていたように思います。毎日、横川を通って、観音の学校に通いましたが、横川に食糧倉庫があって、大豆が火炎でいつまでも焼けてこげていて、その臭いが充満していました。その臭いが、自分の身体にしみついて残っているのでしょうか。いまも大豆をいったり、焼いたりする臭いだけは大嫌いです。当時の言葉に尽くせぬ状況、独特の臭いを含め、自分の脳裏に浮かび、たまりません。おいしくないとか、気持ち悪いとか、どんなものを出されても戦後生きてきたから、少々平気ですが、あの臭いだけはごめんです。

入学してわずか二~三週間もあったでしょうか、机を並べて学習しただけで、あとは学徒動員の毎日で、誰が誰か名前も十分に知らないまま、ほとんどのクラスメートは学徒動員で爆死しました。クラス会などやりようもありません。

自分には二人の子供がおり、幸いにも元気ですがあの状況をなんらかの形で子供にも残してやりたいと思いますが、現実は毎日の生活に追われて、伝え残すことがおろそかになっています。

原爆の恐ろしさ、むごさを後世に伝え残すことは、生きのびた自分の大切な仕事だと痛感します。あんなことは再びあってはならないことです。

原爆の被害のものすごさは、体験した人、見た人以外はわからないでしょう。話をしても、知らぬ人はオーバーと聞く人もいるし、知識で知っているだけで政治家(政府)が、国際法に違反しないなどというのは、その代表ではないでしょうか。あの現実を知っている人なら、とてもそんなことは言えないと思います。

手記「あの日を忘れない」

中島 克己

広島に原子爆弾が投下されてから、はや五十年を迎えます。歳月の流れがいかに早いかをしみじみと痛感しております。平和な時代に生き、物心両面で恵まれた生活のなか、当時、多くの先生を失い、多くの友を失ったことを思うと、自分もまた消え入りたいほどの悲しみのどん底に陥ることがあります。同時に、生き残った自分の使命の如何に重く、大きいかを感じております。

今、五十年を一つの区切りとするため、当時の生活を思い出しながら、まとめました。

昭和二十年八月六日八時十五分、「ひろしま」原爆投下によって一瞬にしてその大地は焼け、その上に人間の屍が重なりあい、絶叫が交錯した。我が師、我が友、二百余名の尊い命も失われた。五十年過ぎた今でも、国民服姿の恩師、あどけない十三才の友の顔、顔がはっきりと記憶に残っている。

もう二度と悲惨な核戦争は絶対にあってはいけない。

おもえば、私は昭和二十年四月、広島市観音町にあった広島市立造船学校(現在の市商高校)に入学しました。戦局は悪化の一途をたどる中、教室での勉強はわずか二週間足らずでありました。本土決戦に備えての厳しい軍事訓練と、学校のグランドを耕してサツマイモやカボチャを作ることの毎日でした。

沖縄戦が終止符を打った六月二十三日頃からは、本土決戦に備えて物資を貯蔵するため、広島市高陽町の山中に、横穴掘りに動員されました。くる日もくる日も、兵隊さん達と一緒にモッコを担いで頑張りました。そして、はっきりとは覚えていないが、七月十五日頃から、運命の広島市内の建物疎開作業に従事するようになりました。当時は非常時体制下にありましたので、現在のように七月二十日からの夏休みもありませんでした。広島市内の中学一年生はほとんど中島町や雑魚場町などで、集中的に作業をし、八月六日の原爆投下に遭遇したわけです。

たまたま私は八月四日夜、己斐駅(現在のJR西広島駅)九時四六分発、下り門司港行きに乗り、長崎県諫早市の父の実家に行ったのが、運命の分岐点となり、生き残っております。私が母と一緒に被爆後の広島市に入ったのは、八月十八日でした。己斐駅に降りて市内に目をやったとき、あのきれいな街だった広島が、見渡す限りの焼け野原となっているのをみて驚き、愕然としたのがきのうのことのようです。七十年間、広島には草木がはえないと言われていましたが、五十年たったいま、広島は原爆の傷跡もわからない程、素晴らしくきれいな街に復興しました。

私は奇遇というか、自分が学んだ母校に教師として定年まで二十八年間勤務しました。

学校が主催する八月はじめの原爆死没者慰霊祭に出席してきました。これからも命ある限り、みんなの供養を続けていきます。